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六重溪平埔夜祭

六重溪平埔夜祭

もし文献や史蹟の記録がなければ、部族や集落の文化は、時代の変遷とともに失われていきます。

現在、台湾では多くの伝統文化や部族の史料などが消失の危機にあります。これを鑑み、平埔族の人々は自分たちの文化を伝承していこうと行動を起こしました。今では毎年定期的に平埔族の夜祭りを行っています。

有唐山公,沒有唐山嬤

「有唐山公,沒有唐山嬤(大陸からやってきたお祖父さんはいるが、おばあさんはいない)」というように、台湾人の母系祖先は漢民族ではなく原住民族です。夜祭は平埔族、漢民族の区別なく、みんなで一緒に六重渓平埔族の夜祭の意義や由来を理解し、奥深い平埔族文化を体感していこうとうものです。

六重渓の人々は平埔族の文化、産業紹介、祭典などを通して、台湾の人々に平埔族の文化を理解してもらおうと願っています。

六重渓

六重渓は六重渓沿いにあるいくつかの集落全体の総称です。東山郷や白河區からこの集落まで、渓流が6回曲がりくねることから名付けられたそうです。また、六重渓という名前は河畔付近の最大集落が「六重渓集落」であることから付けられました。六重渓は戦後「六渓里」に改められ、台南県白河區に属しています。現在百戸あまりの平埔族の末裔が住んでいます。ここは元々は平埔族のホアニヤ族の多囉国社の狩り場で、清国乾隆中葉まで、ここの人々は「ダイボアン族」の「大武龍社」(現在の玉井郷、楠西郷)に属していました。後に彼らが北方の六重渓河畔に移住させられ、集落を再建し、「大武龍派社」を建てました。漢民族の開墾が内山方向に進められ、六重渓までおよび、さらに日本統治時代に「タパニー事件」が起こると、多くの平埔族は再び六重渓に遷居しました。これにより、ここは平埔族と漢民族が雑居する土地となったのです。中でも平埔族は主に三重渓集落以東の六重渓の河谷に分布していました。

ここは台南市白河區関嶺と東山區山泉の間に位置し、六重渓が横断しています。閉ざされた地形ですが、風光明媚な桃源郷のような土地です。六重渓に沿って上っていくと、両岸を山に挟まれるようになり、椰子の樹や過山香(Haban)、刺桐に囲まれた家屋や美しい花々が目に入ってきます。ここには伝統的な竹家屋や古文物、石廟、茅葺き屋根の廟、平埔精神の牌樓などがあり、平埔族文化を完全に再現したスポットとなっています。「六重渓平埔文化園区」という名前で、六重渓の平埔族が自分たちの文化の維持と永続に力を尽くしていま

毎年農暦9月15日に祭典が行われています。平埔族は昔から大自然と密接な繋がりを持ち、祭典にはすべて自然界のものを用いてきました。こうした自然との対話が彼らの文化的特色でもあります。

夜祭の祭儀

祭儀の詳細は以下の通りです:

  • 太祖起駕,五姉妹團圓妹、 清水老君を拝む
  • 豚を捧げる儀式
    六重渓平埔公廨管理員の主任委員は部族の者を引き連れ、清水老君と五姉妹に祈祷します。部族の平安や夜祭の成功、国家安泰を願います。
  • 牽曲(伝統的な歌舞)
    平埔文化の復興と保存のため、六重渓夜祭では長年失われていた歌舞が再び重視されるようになりました。六重渓の牽曲はすべて6曲あり、現在専門の学者により確定したのは3曲です。これらは祭典の間、一時間に一曲歌われるようになっており、一曲目は「起曲調」という軽く哀愁を帯びた曲で、二曲目は「卡多楽歌」という曲で、その意味は現在調査中です。三曲目は「千親引戚」という曲で、軽快なリズムにより、楽しい雰囲気となっています。 六重渓平埔族の夜祭における牽曲の規範は、他部族と同様に、祭りが始まった(農暦9月1日)から歌うことができ、祭りが終了すると、歌うことはできません。仮に牽曲を吟唱する必要がある時は、占いによって太祖の同意を求めます。
  • 翻猪(豚をひっくり返す儀式)
    農暦9月15日に太祖起駕すると、「翻猪礼」が行われます。尪姨が酒瓶を持ち、豚の身体に振りかける動作をします。これが清水老君および太祖五姉妹が、この豚を受け取ることを意味しています。最後に、うつぶせになっていた豚をひっくり返し、四本脚を天に向けます。
  • 紙銭を焼く儀式
    夜祭りの前に、尪姨が部族の人々にいくらかの冥紙(冥土で使うお金)を準備するように指示します。「翻猪礼」の後に、このお金を金の炉の中に入れて燃やします。こうして長い六重渓夜祭は終了します。
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