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シラヤ発見

シラヤ発見

シラヤ国家風景区が誇る伝統文化と言えば、やはり「シラヤ族文化(平埔族の一部族)」を挙げなければなりません

シラヤ国家風景区が誇る伝統文化と言えば、やはり「シラヤ族文化(平埔族の一部族)」を挙げなければなりません。漢民族が台湾へやってくる前、嘉南平野に点在した平埔族の集落の数々。主にホアニヤ族やシラヤ族と言われる人々で、狩猟や簡単な農耕、漁業を糧として暮らしていました。長らく天災と高砂族(高山に住む原住民たち)が彼らにとっての二大脅威で、自衛のため、一定の場所で生活することはせず、集落の規模も大きくはありませんでした。

漢民族が台湾へやってきたことで、彼らは本格的な農耕技術を知ることになります。平野には灌漑用水のため池が設けられ、稲作が始まりました。これにより、漢民族は技術や資本において優勢になりました。そして、「割地換水」と呼ばれる体制を取るようになったと言います。これは漢民族がため池を設け、平埔族が土地を分割する代わりに用水を得るという仕組みです。長い年月を経て、漢民族が大量移民するようになると、平埔族は次第に同化されていき、双方の協力関係は歴史上の記憶となりました。

平埔族の正名運動

1990年代、平埔族の正名運動が開始されました。そして、草の根の「平埔文化復興運動」により自分たちの文化や部族のアイディンティティに目覚めるようになりました。出版物(文化認知、知識の構築)やフィールドワーク(歌舞、姓氏、系譜、飲食)を通して、儀式が復活(阿立祖信仰、夜祭、嘯海)するようになり、自分たちのルーツ探しが始まりました。そして、全世界においてディープな「文化観光」がちょっとしたブームになると、平埔族文化の伝承経験も尊重されるようになりました。台南地域では平埔族間、平埔族と他部族との対話がもたれるようになりました。

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人文風情

八田與一

八田與一

日本統治時代の嘉南平原は広いながら、水資源が欠乏していたため、土地は乾燥して痩せており、農作物の栽培はできませんでした。

1910年、当時、24歳だった日本人土木技師、八田與一は、台湾南部に出向き、烏山頭ダム及び嘉南大圳の難しく時間のかかる調査測量、設計作業に取り掛かりました。十年の歳月をかけ、1920年、この大規模な工程はやっと正式に工事が始められ、さらに十年かけて、ようやくこの巨大な工程が完成しました。

嘉南大圳の完成により、この地の農作物の生産量は2~5倍も向上し、嘉南平原は台湾で最も重要な米倉となりました。1941年、太平洋戦争が激しくなり、1942年5月、八田與一は日本へ帰国することになりましたが、途中、彼の乗った船は不幸にも海上で米軍の潜水艇に撃沈されてしまいました。彼の遺灰は台湾に送り届けられ、彼が三十二年の年月を過した烏山頭ダムの地に永眠しました。2007年7月12日、駐日代表、許士楷代表総統は、八田與一の栄誉を讃え、彼の台湾農業への貢献を表彰し、八田与一の息子の嫁、八田綾子と孫の八田陽一が受領しました。

八田與一紀念館

八田與一紀念館

「八田技師紀念室」は烏山頭ダム風景区に建てられ、その墓及び記念の銅像は今でも風景区中にあります。水利会は毎年、命日に「八田追悼紀念会」を行っています。日本人が成立した「八田の友の会」からも彼への絶えることない尊敬の気持ちがうかがえます。

毎年5月8日、烏山頭ダム及び嘉南大圳を設計、建設した日本水利技師「八田與一」先生の命日に、嘉南農田水利会は、烏山頭ダムで「八田與一と台湾水資源」発表会及び追悼記念会、音楽会を行い、後人の八田技師に対する追悼の意を表しています。八田與一の子孫らも、毎年、日本から訪れ、この追悼記念会に参加しています。

余清芳

余清芳 噍吧哖事件

噍吧哖事件は1915年に発生、日本統治時代、台湾人が武装した抗日事件の中で最大規模で、最も多くの犠牲者が出ました。台湾人が初めて宗教の力を利用して日本統治に反抗した重要な事件でもあります。革命を計画した場所が台南市西来庵王爺廟であったため、「西来庵事件」と呼ばれたり、事件を起こした主要人物、余清芳(1879年-1916年)の名から、「余清芳事件」とも呼ばれたりしています。

余清芳は台南市「西来庵」で神仏の名を借りて抗日運動を唱え、その後、台中人羅俊及び楠梓人江定らと知り合い、密かに「大明慈悲国」を計画、宗教により信徒を率いて、日本の台湾統治20年に、時は満ちたと宣言、彼は自分が「台湾人の皇帝」を担うよう王爺の神示を受けた、中国からも大軍が支援に来ると言いふらした。しかし、計画の途中で、総督府に知られたため、余清芳は山中に逃げ込み、噍吧哖(今日の玉井区)で日本軍と戦い、翌年4月に山から誘い出されて捕らわれました。その後、台湾総督府は台湾民間信仰を取締り、同じような事件が再発生しないようにし、台湾人民の抗日運動は武装によるものから社会政治運動へと変わっていきました。

噍吧哖紀念公園

噍吧哖紀念公園

噍吧哖紀念公園は台20線と台84線の交差するところにあり、玉井区の入り口、石碑が建てられている地は日本が抗日軍を殺した殺戮の戦場跡です。玉井区公所は特産のマンゴーから、記念公園の看板を巨大な愛文マンゴーの形にし、玉井区の目印としています。

余清芳抗日紀念碑公園

余清芳抗日紀念碑公園

余清芳紀念碑は玉井区東方虎頭山頂にあり、当時の烈士の抗日の様子を思い起こさせます。山頂は視野が開け、玉井区の美しい風景が眺められます。

楊逵

楊逵 不屈のバラ

楊逵、本名楊貴、台南県新化人(1905-1985)

楊逵は生前「両手は人民文学に努め、両足は社会運動のために奔放」し、「日々鍬で大地に詩を書く」生活を過しました。生涯、作家活動の他、社会運動に従事し、入獄時以外は、花を育てて、質素に暮らしました。

1924年、学問を求めて東京へ出向きましたが、1927年、日本大学専門部文学芸術科を退学し台湾へ戻りました。帰国後、台湾農民組合と台湾文化協会に加入、社会運動のリーダーとなりました。日本統治時代、殖民政府に反対して、10回入獄しました。1934年、日本語で書いた〈新聞配達夫〉が東京《文学評論》で第二位(一位該当者なし)に入選、文壇の基礎を築きました。その後、《台湾文芸》日本語編集者を担当、1935年、妻、葉陶と雑誌《台湾新文学》を創設。皇民化運動推進期間、土地を借りて「首陽農園」を創立しました。戦後初期、《一陽週報》を創刊、《和平日報》「新文学」欄、《文化交流》、《台湾力行報》「新文芸」欄、《台湾文学叢刊》などの編集を担当、中国から台湾に来た作家との間に深い交流がありました。二二八事変後、妻、葉陶とともに捕らえられ、4ヶ月投獄されました。1949年4月6日〈和平宣言〉により捕らえられ、12年間の刑が言い渡されました。緑島の監獄に囚われた10年の歳月の中、中国語の作品が次第に成熟し、獄中の刊行物《新生活》、壁新聞《新生月刊》に多数発表しました。脚本も多く創作し、供受刑者の晩会及び街頭パフォーマンス用に提供されました。牢を出た後は、台中大度山に土地を借り「東海花園」を開墾し、花の栽培に従事しました。1976年、緑島獄中で創作した小説〈不屈のバラの花〉(〈春の光は防げない〉改題)は中学校の国語の教科書に収録され、日本統治時代に有名になった台湾籍の作家作品で初めて教科書に収録されました。

楊逵文学紀念館

楊逵文学紀念館

楊逵を記念して、新化区公所は旧市街地でかつて地政事務所であった場所に「楊逵文学館」を設置、「ベニス建築双年展」の建築設計師、劉国滄が設計を担当し、展示ロビーはモダンで明るく、文物が豊富で、文学的な雰囲気の溢れる空間は訪れる価値があります。

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